2005年に出版した『生きる意味』(岩波新書)の「あとがき」の冒頭に、私はこう書きました。
「私は『弱いものいじめ』をする社会が嫌いだ。それは私が成長する中で家族から受け継いだ教えであり、小学校の恩師から受け継いだ教えであり、何よりも私の中から湧き上がってくる魂の声である」
日本人の「生きる意味」の貧しさと、それからの解放を提言した本のあとがきが「弱いものいじめ」から始まるのは奇異に思われるかもしれません。しかし、自分の生きる意味を他者からの評価や他者との比較でしか見いだせない人は、幸せだと感じるために自分より劣位にある人を必要とします。このような考え方が、日本社会の暴力性を生み、新自由主義の進展の中でますます強まっていることへの強い異議申し立ての思いが、そこにはありました。
「生きる意味」の前には、「癒しの上田さん」と呼ばれていました。それは「癒し」という新語(当時はまだ新しかった言葉)を私が声を大にして広めた経緯があるからです。物心ついたときからずっと右肩上がりの経済成長の時代を生き、しかし「24時間戦えますか?」の世界には安息がなく、皆の顔色も良くありませんでした。そしてとうとう訪れたバブルの崩壊。その中で、「本当に自分が満たされる生き方をしようよ!」という提案が「癒し」だったのです。
その「癒し」の原点には、若き文化人類学者として2年間フィールドワークを行ったスリランカでの「悪魔祓い」の体験がありました。スリランカの田舎では、病院に行っても治らない心身の不調を悪魔の仕業とみなし、民俗仏教の悪魔祓いの儀式を行います。それは、患者の家の庭に100人以上の村人や親戚が集まり、夜を徹して行われる村祭りのような儀式です。儀式には、悪魔に憑依されたトランス状態の緊迫感のある場面もあれば、華麗な踊りや、悪魔の仮面劇でのダジャレ、下ネタで村人たちが腹の底から笑い合う「楽しい悪魔祓い」も含まれます。そして患者は、確実に元気になっていくのです(『スリランカの悪魔祓い』(講談社文庫)、『立て直す力』(中公新書ラクレ))。
悪魔が憑くのは「孤独な人」だと皆が言います。「孤独な人に悪魔の『まなざし』が来るんだよ」と。スリランカも日本と同様、人の目を気にする社会ですが、そこで「周りの人のまなざし」という地獄に陥った人が悪魔に憑かれるのです。「こんなに頑張っているのに、なんでこんなことを言われるんだろう?」「自分は消え去ったほうがいいんじゃないか」「もう生きていけない…」。しかし、そうやって「病む」と悪魔がやって来ます。そして村人や親戚が集まり、悪魔祓いの儀式を行い、悪魔も皆を笑わせながら去っていき、最後に仏さまの光が射してくる。悪魔も幸せ、患者も幸せ、村人や親戚も幸せになる場がそこにはあるのです。
弱いものいじめをしないと幸せになれない社会は不幸です。長い人生の中では、誰でも病み、傷つきます。しかし、その時こそ、私たちは仲間や家族のかけがえのなさに気づき、「世界は決して私を見捨てないんだ」という天からの声を聞けるのではないでしょうか。
このプロジェクトは、私が人生を賭けてきたそんな「思い」のど真ん中にあります。
上田 紀行(うえだ のりゆき)
東海学園大学特命副学長・卓越教授 東京科学大学特命教授。
東京大学教養学部卒、大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(医学)(岡山大学)。愛媛大学助教授を経て、1996年より東京工業大学助教授、2012年リベラルアーツセンター教授、2016年より新設のリベラルアーツ研究教育院院長を6年間務め、2022年副学長(文理共創戦略担当)に就任。2024年より現職。専門は文化人類学で、「癒し」の概念を日本において最初に提示するほか、現代社会の生きづらさの根源、人間性の再生、新たな社会像の構築を論じる。著書『生きる意味』(岩波新書)は20年間で40刷を重ね、新聞、テレビ等での発信も多い。その他の著書に、『かけがえのない人間』(講談社現代新書)、『立て直す力』(中公新書ラクレ)、『目覚めよ仏教!—ダライ・ラマとの対話』(NHKブックス)、『人間らしさ 文明、宗教、科学から考える』(角川新書)、共著に『とがったリーダーを育てる-東工大「リベラルアーツ教育」10年の軌跡 』(中公新書ラクレ)、編著に『新・大学で何を学ぶか』(岩波ジュニア新書)などがある。
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