子どもたちに、若者たちに、そして大人にも、耐えがたい苦しみと心の傷を与え、時には命までも奪ってしまういじめ。そのいじめがなくなったら、私たちの社会はどれほど明るく、のびのびとしたものになるでしょうか。
「そんなことは無理だ。どんな時代にも、どんな社会にもいじめは存在してきた。なくせるわけがない」
そう思われるかもしれません。
しかし、私たちはすべてが急速に発展する現代に生きています。だからこそ、現代の叡智を総結集して、この大きな課題に真正面から取り組んでみたい。文系・理系を超えたダイナミックなチャレンジ、現代の先端知や先端技術を、これまで人類が育んできた深遠な叡智とかけ合わせて挑む。それが私たちを突き動かす思いです。
いじめをなくす、とは何でしょうか。
いじめの発生を早期に発見し、深刻な状態に至らないよう対処する。SNSなど、サイバー空間でのいじめにどう向き合うかも重要な課題です。
それとともに、いじめを生みやすい「風土」の研究も不可欠です。どのような人間関係の場で、いじめは発生しやすいのか。どのような学校風土が、いじめを助長するのか。それを改善するには、何が必要なのか。
そして、いじめが起こりそうになったとき、あるいは起こってしまったとき。子どもも大人も、それを自分自身を洞察するきっかけとして捉え、自分に潜在する暴力性や自らの弱さに気づき、いじめられている人に寄り添い、自分も仲間も、そしてその場全体が成長し、より良い関係性を築き、皆がのびのびと生きられる場に変換していければ、どんなに素晴らしいことでしょうか。
小さいころから、いじめられないように人の目を恐れ、忖度し、同調圧力に屈していく。
それは、私たちの魂を傷つけます。そして、そんな社会からは、のびのびとした創造性は決して生まれないでしょう。
私たちは、この「いじめゼロ!」プロジェクトを通じて、社会をより生きやすく、自分を活かし、仲間を活かす方向へと転換していく――そんな大きな夢を抱いています。
熱い思いを持ったメンバーが集まったとはいえ、最初は小さなスタートです。しかし、新たに発足した東京科学大学の持てるポテンシャルを掘り起こし、さらに大学の枠を超え、社会全体の思いを結集しながら、「いじめゼロ!」への道を歩んでいきたいと考えています。
ぜひ、その大きな夢に、ご一緒していただきたく思います。
メンバーの「いじめをなくしたい!」という強い思いから始まったこのプロジェクト。その原点は、2012年に始まった東京工業大学のリベラルアーツ教育改革にあります。
かつての東工大は文系教員として、川喜田二郎、鶴見俊輔、永井道雄、伊藤整、宮城音弥、永井陽之助、江藤淳といった錚々たる教授陣を擁する大学でした。しかし、バブル経済崩壊後の日本社会全体が「即戦力を生みだせ」という方向へと傾く中、専門教育が重視され、教養教育が軽視される時代を迎えます。
しかし、2012年に東工大はリベラルアーツセンターを創設し、2016年にはリベラルアーツ研究教育院を設立。ふたたび文系教養教育を大学の柱のひとつに据えました。そこには、「世界の状況と切り離された狭い専門領域の研究からは大きなヴィジョンも生まれず、世界の苦しみや課題に向き合う科学技術も生まれない」という深い反省がありました。
当初、この改革は学生へのリベラルアーツ教育に重点を置いたものでしたが、やがてそれは文理共創の研究創出へと発展していきます。上田は2016年から6年間、リベラルアーツ研究教育院の院長を務め、さらに2022年から2年間、文理共創戦略担当副学長を務めました。その12年間にわたる改革によって、東工大の「文化」は驚くほど変化しました。
そして2024年、東京医科歯科大学との統合によって東京科学大学が誕生。この流れはさらに加速しています。本プロジェクトは、その潮流の中で、臨床科学の領域における「人の苦しみに寄り添い、向き合う」という営みと重なり合っています。
苦しみに寄り添う。そして、それを単なる個人の問題としてではなく、「場」の問題、さらには社会の問題として捉える。この視点こそが、プロジェクトメンバー全員が共有し、研究分野を超えて私たちを結びつけたものです。
リベラルアーツとは、「リベラル(自由)+アーツ(技)」――〈人間を自由にする技、人間が自由になる技〉を意味します。古代ギリシャ・ローマ時代には、自由市民と奴隷という二つの階級があり、自由市民が持つべき素養こそがリベラルアーツでした。つまり、リベラルアーツは「自由に生きるための技」だったのです。
そして、この時代からリベラルアーツは決して「文系」だけではありませんでした。文法、論理、修辞が「文系」、算術、幾何、天文、音楽が「理系」。リベラルアーツとは「文系」に限定されたものではなく、「人間を自由にするための『文理』の諸科学」だったのです。
多くの人が「リベラルアーツ=文系」と考えがちですが、「いじめ」という苦しみに向き合う中で、科学技術もまたリベラルアーツとなり得る。そして文系も理系も、学問分野を超えて、「人間を自由にする技」となるのです。
私たち東京科学大学発のこのプロジェクトは、その大きな使命を担っています。
本プロジェクトは、「いじめゼロ」を掲げ、文理共創の総合知を結集させ、社会全体で問題化するいじめを、個人、人間関係、集団・社会レベルから解明し、“レジリエンス”と“共感力”を基盤とする信頼社会の成熟によって克服することを目指します。
いじめは人間関係や組織内で発動する暴力性や抑圧性の現象であり、それは人間性や人類文化に必然的に備わっていて、根絶は難しいと考えられます。しかし人類は暴力や抑圧の発動を抑え、これを乗り越える愛、慈悲、利他、友愛なども、人間性や人類文化のうちに有しています。本プロジェクトは、かかる文化的伝統と東京科学大学の強みとする技術開発との融合をもって「いじめゼロ」に取り組みます。
そのため今までの教育界を中心とする「いじめ問題解決」の蓄積を踏まえ、さらに新たに、今後、起きうるいじめ問題の解決を先取りする方策を可能にするシーズを発見し、現場の教育関係者はもとより、いじめ問題に関わる研究者・実践者、関連する技術開発者などと連携し、「いじめゼロ」の輪を拡げていきます。
現在、本プロジェクトは、教師をサポートする技術・システムを教育現場に導入し、新しい教育環境空間が創造されることで、いじめをうまない教室・学校風土づくりが進み、いじめを未然に防ぐことができるようになるために次の3点の課題解決に向けて研究と実践を展開しています。
①いじめ予防の取り組みの足かせとなっている教育現場の加重負担の解決に向けて、教室運営サポートシステムを確立すること。
②児童生徒と教師の見守りセンシングシステムを確立し、この技術の導入でクラス運営をサポートすることで、教師の自己効力感と指導力が向上し、教室において80%の児童生徒に望ましい行動が認められる、と教師が判断できる状態に近づくこと。
③生徒の行動や心理の定量的把握の不十分について、いじめの予兆をとらえる行動とこころの特徴量の解明すること。
本プロジェクトは、教育現場のサポート技術・システムが、新しい教育環境空間を創造し、いじめをうまない教室・学校風土づくりが進み、これが、さらによりよき教育環境空間の創造につながる好循環を目指していきます。
弓山達也 教授
上田紀行 教授
永岑光恵 教授
三宅美博 教授
柳瀬博一 教授
森田正康 研究員







